昭和五十七年六月二十三日 朝の御理解
                                                            御理解第三十四節
 「此所へ参っても神の云ふ通りにする者は少ない皆帰ってから自  分の好いやうにするのでおかげはなし神のいふ事は道におとし  て了ひわが勝手にして神を恨むやうなものがある神の一言は千  両の金にも代へられぬ有難く受けて帰れば土産は船にも車にも  積めぬ程の神徳がある心の内を改める事が第一なり神に一心と  は迷いのない事ぞ」
                                                             天衣無縫という言葉があります。天が作った着物には縫い目がない。誰が着てもぴったりである。大きい者が着れば大きく、小さい者が着れば、その人にぴったり合う。ま、そういう意味だそうです。 天衣無縫。それが本当の意味で、天衣無縫という言葉が使われてないようですねぇ。
 私は合楽の信心ぐらい天衣無縫な信心はないと思います。今日のみ教えにございますように、ね、有難く頂いて帰れば、おこげは船にも車にも積めぬ程の神徳がある、と、こう仰せられる。それを信ずる、と、いうこと、ね。それを頂く、と、いう事なのですけれども、なかなか神の云う通りにする者が少ない。これでは神徳も受けられません。いうなら、おかげにも、本当のおかげにはなってまいりますまい、ね。
 どういうわけ、神の云う通りにする者が少ないのでしょう。こんなにも的確に、こんなにも間違いなく頂けれるおかげ、と、いう事をね。おかげは信じても、神様の云って下さる事は信じておらん、ではないけれども実行しない。本当に信じたら実行せずにはおれない。そんなに難しい事を云われるわけでもないのだから、ね。
昨日は田主丸のむつやの恒例の謝恩祭でした。ま、本当に大変有難い年年歳歳立派なお祭りが出来てまいります。ね、まるっきり二階のあの大広前の中央に神様がお祭りしてございますから、もう、本当にお教会のような感じです。その中で、ま、賑やかなお祭りが奉斉して頂いたんですけれども、私は昨日あちらへ参りましてから、皆さんにお話を聞いてもらった事でございますけれども、昨日の朝の御理解をあえて、また、聞いてもらいました。それを昨日の御理解の芯にして聞いてもらいました。と、いうには、私は今日、皆さんに申しましたように、合楽の御理解は確かに天衣無縫だからだ、ね。
 朝の御理解を、なら、皆さんが頂く、また、一日中朝の御理解をテープでまた頂かれます、ね。それを皆さんが、ね、今日の御理解は、これは私に下さった御理解だ、と、まあ感じる。感じたら、それを本当に頂いて帰る、実験実証の上に。いわゆる、それに取り組ましてもらう。必ず実証が生まれるだろう、と。
と、いうのは、私、昨日、久留米の石田先生達御夫妻が、昨日の朝お参りが出来てなかったから、と、云うて、お参りして見えられ、今朝方からこういうようなお夢を頂いた、と、云われます。これも丁度、時を同じゅうしてでしたが、福岡の西分会の間島さんという方が、熱心にご信心されます。その方がお参りをしてまいりました。二、三日前、こういうようなお夢を頂きました、と、こう云うのです。石田さんにもそう申しましたし、その間島さんにももうしました。あら、あんた、それは今朝の御理解たい、ち、云うてもうしました。全く、その内容が今朝の御理解だったからです。昨日の朝の御理解だったからです。
 例えば、その、間島さんが頂いておられるのは、田中丸という人から、大阪行きの切符をもらった。これは、その、田中丸さんだけしか発行出来ない切符である。
田中丸さんの切符を頂かなければ大阪は越えられん、と、云うお夢であった、ち、云う。田中丸という事とは、これは合楽の事であろう。私の事であろう、と、こう思いました。ね、おかげを、ま、完璧なおかげを持っておる人、と、いう意味でしょ。田んぼ、と、云う、丸は欠げた事のない、と、いうでしょ。
いうなら、合楽の御理解を本当に身につけておかなければ、この大きい阪は越えられない、と。昨日の朝の御理解はそうでしたね。
 久留米の荒木というところから、合楽に向かって進んでくる。そこに右左に道があって、ね、右の方の道は平坦だけども小さい道。これでは自動車が入らん。だから、自動車が入るためにも大きい道でなからなならんけれども、それは、合楽行きに絶対の道でもあり、近くもあるのだけれども、途中途中に難所がある、と、こう云うのです、難しい所がある、と。それは、私は辿らせて頂いた。成程大きな道だけども、そこには難所があるけども、それこそ渾身の力をこめなければ越えられない。そこを通り越えて、ははぁ、私にもこんな力があったのだろうか、と、自分の力を信ずる事ができる。自分の内外しておる力を引き出すことができる。そこの難所を通った時、初めて自分の力を確認した。その確認した、ぞの力をもって神様へ向かう、ね。
 神様を信ずる力も同じだ、と。昨日は、守々の力、と、云う、あの御理解でしたよね。だから、これは、教会の先生方に下さる御理解ですけれども、それを、守々の力、とせずに、各自各自、信奉者の、例えば合楽教会という所は、誰が参っても合楽教会である、同じである、ね。けれども参る人の、いうならば、力、次第でおかげがちがう、と、いう御理解だったでしょね。だから、守々の力である、と、同時におかげを受ける方の側の信心程度。または、力によって、おかげがちがうのぞ、と、いうのですから、どうしても力を受けなければならない。その力を受けていかなければ本当の合楽世界に住む事が出来ない。合楽世界をめざすならば、というのである。ためには、なら、昨日、間島さんが頂いておる、この大きな阪を越えるためには、田中丸で切符を頂かなければいけない、て。普通ではいけない、ね。それはしかも、三日前に頂いた、と、こう云うのですよ、ね。けれども、三日前に頂いておっても、神様はちゃんと、昨日お参りをしてくる事なっとるとから、昨日の朝の御理解と同じであった。そういう事を、私は天衣無縫だと思いますね。
 皆さん、各支部では、ここのテープを、皆さん頂いて帰られます。昨日も鞍手の前田さん、と、いう方から電話がかかった。もう、も兎に角あの、今、信楽という御本を頂いて帰って、途中まで読ませて頂きよったら嗚咽が出てきた。声がでるように有難うなってきた。ね、神様に御礼を申さして頂きよったら、昔の信心の友達の、あんまりつき合いもなかった人が、ひょっこり尋ねてきた。
 ○○教会におかげ頂いておるけれども、まだ一向におかげが受けられない。それでもやっぱり、一家中で日参をする。だから、宅祭りやら何かでも、もう自分の一家中、私が、ま、自分でお祭りしておる、とみったよなお話であった。それで、今、自分が有難い、と思っておるお話を聞かせて頂いて、ね。合楽から出ておる沢山な本を、その方にあげられた。おかげの泉もあげられた。御新聞もあげられた。何巻も頂いてきとる、そのテープも聞いてもろうた。そしたら、その方が云われるのに、も、今日、私が頂かなければならない事を、お話に出ておる、こんなお話は聞いた事がない、と、云うて、そのテープも何巻か借って帰られた。それで、昨日、この買って帰ったばかりの信楽を、その方にも差し上げた、という電話であった、ね。それは、何時の御理解か知らないけれども、その方が、たまたま尋ねて来た人が、はあ、これで助かった。これで、私は、私が頂かなければならん御理解だった、と、いうのですから、そういうのを天衣無縫だと、わたしは、ね。各、あの支部なんかでは、みんなテープを持って帰っておりますから、も、いつの、と、いう事はないけれども、朝は朝、みんな御祈念に集まっては、ま、テープを聞く、と、前、来合わせた人達が、本当に各自各自、私が頂かねばならない御理解だった、私が頂かねばならない御理解だった、と、云うて、特に、あの、伊万里の竹内先生とこでは、毎朝、朝の御祈念がありますから、皆参って来るのが、それはいつの御理解かわからんのだけれども、私が頂かなければならない、天衣無縫なんです、ね。神様がお作りになった、いうなら、お話なのですから、やっぱ、お作りになったでしょうね。ね、それがなら、例えば、今朝の御理解を今朝頂かなければ、と、いう事ではない。
三日前に頂いたお夢が、参り合わせてお届けをさして頂いたら、それは、あんた今日の御理解たい、と。全く同じ意味のお夢を、ま、間島さんが頂いておられた、石田さんが頂いておられた、と、こういう事。神様が、もう、抹消神経に至るまで、合楽に御縁頂いとる人達の上に、そういうお働きを、ね、起こしておられる。ただ、それを私共が気が付かない、というだけの事である。
私が毎朝、朝の、昨日は、私が昨日の朝頂いたお夢を、それから、昨日の御理解でした。ね、私の頂いたおゆめ、それから、なら、この教典をです、今日はあげな夢ば頂いたけん、それにぴったりくる御理解はなかぢゃろか、と、探すという事ぢゃないでしょうがね。 教典を神ながらに開かせてもろうて、私のいうなら眼力による、ね、目の力による、今日はこれだ、と、頂いたものを聞いて頂いてね、まるっきり、その夢と、その日の御理解がつながって来るでしょうが。
私、その事を昨日、田主丸で申しましたことでした。ね、そういういうなば、神ながらなお話なのだ、と、合楽の場合は。
私が、今日はあげな話ばいっちょしようか、と、云うてするような話は一遍だってないって、こうしてお話ししながらでも、どんなお話ししとる、と、いう事ぢゃない。ま、いうならば、こうしてお話ししながら頭に浮かぶ事を聞いて頂くのだある。しかも。それが、なら私が頂いておるお夢、また、私が御心眼に頂いたお知らせ、と、なら、その日の御理解がぴったり合う、と、いうところから考えても、いかに合楽の御理解が神乍らなものか、しかも、それは天衣無縫なものであるか、と、いう事を皆さんが本当に信じたら、ね、神の云通りにする者は少ないぢゃなくて、合楽でばっかりは、も、どう考えてみても、親先生が云う通りにしなければおられない、と、いう事になるのぢゃないでしょうか。そこを信じたら、こんなにも神乍らな、いうならば、あれこそ神の声なのだ、と信じれたら、それを右左にする事は勿体なくて出来ないのぢゃないでしょうか。こりゃ有難いの、私が頂かなければならん御理解ぢゃった、と、云うてはおるけれども、それを神の声といただききらないところに、頂いた事を右左にするのぢゃないでしょうか。神の云う事を、は、途中で落としてしもうたり、聞かなかったりする。それこそ、有難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬ神徳がある、と、仰せられるのですから、ね。そこん所を、私はいきなり、例えば、自分のですね、まあ、この信者には、こげなふうの話がよかろう、と、いったようなものではなく、天衣無縫の、ま、いわば、お話をさせて頂くのですから、皆さんもそういう神様のお心であり、お声でる、として、頂かしてもろうたら、ね、行じて守らなければおられんのぢゃないでしょうか。そこに、ね、千金の金のも価する程しの御神徳が受けられる事が出来るのです。
 今日は、ね、なぜ神の云う通りにしないのだろう。それは、神様神様と云いよるけれども、本当に神様を信じていないからだ、と。合楽の御理解が本当に神乍らだと、ね、神様のお知らせというなら私の眼力と、それを合わせて、皆が御理解を頂いておる御理解だと皆さんが本当にそうだ、と、信じられたら、ね、神様のあれが御心であろう、神の願いであろう、神の声であろう、と、ね、信じて頂いたら、それは船にも車にも積めぬ神徳が受けられるのです。神のいう通りにする者が少ない、という事は、いかに神様と云うておっても、それ程に神様を信ずる事が出来てないから、守らないのです。 合楽の場合は、ね、神様が信じよ、信じてくれよ、と、云わんばかりに、です、いま、聞いて頂いたようにです、ね、神乍らな、いうならば御理解である、という事。しかもそれは、ね、天衣無縫である、という事を聞いて頂きました。                                  「 どうぞ 」